1月23日 対応
admin≫
2010/01/23 22:42:11
2010/01/23 22:42:11
今日は、南大阪の経営研究会の本年度の最初の事業である「オリエンテーション」が
開催されました。まず最初に築林会長より本年度の方針が伝えられ、各委員会の
事業方針や事業計画を述べられ、先日の本部理事会内容の報告もありました。
今年は、会員拡大をしながらも「ありがとう経営の推進と実践」がテーマです。
記念講演は、セレッソ大阪の宮本広報部長とミスターセレッソ・モリシこと森島寛晃氏
森島寛晃氏は中学生のとき、大河FCの大先輩である木村和司さんのプレーを間近で見て以来、
目標にしてきた。その木村さんから贈られたのが「心・技・体」という言葉だった。
1995年の冬、待望のJリーグデビューを果たす直前だった。プロサッカー選手として
必要不可欠な要素である「心・技・体」はそれ以来モリシの座右の銘になった。
高校は、静岡県の東海第一高校に進学。いわゆるサッカー留学だった。当時はまだ
Jリーグはなかったが、モリシには「プロになりたい」という気持ちはあった。
卒業後、慕っていた先輩がいるヤンマーに入った。
ヤンマーでは、早くから将来を担う選手として注目されていたモリシ。
1994年、チームは「セレッソ大阪」になったのをきっかけに、モリシを取り巻く環境も
変わった。同年、JFLで優勝したセレッソ大阪は翌1995年にJ1に昇格。
1995年はモリシにとっての大きな転機になった。日本代表に初選出されると同時に、
レギュラーに抜擢され、加茂ジャパンにとって不可欠の存在になった。1998年には
ワールドカップフランス大会のメンバーに選出され、1試合に出場。
その一方で、セレッソ大阪でも中心選手としての活躍が続き、1999年から2年間は
キャプテンを務めた。特に2000年1stステージには、リーグ優勝まであと一歩に
迫ったチームを引っ張りつづけた。
代表のユニフォームを身につけることのなかった1999年を越えて、2000年6月の
ハッサンII世杯のフランス戦では1ゴールを挙げ、見事に復活。同年のアジアカップ優勝、
さらに2001年のコンフェデレーションズカップ準優勝にも貢献した。2002年開催
されたワールドカップではセレッソのホーム・長居スタジアムでゴールを決めた。
2007年の4月に原因不明の首痛で戦線を離脱。長いリハビリ生活を送るも復帰の目処が立たず、
2008年10月31日に引退を発表。
モリシの最大の目標は、引退した今も変わらず「セレッソ大阪のリーグ優勝」だ。
セレッソのユニフォームを着て優勝カップを掲げるという夢は成し遂げられなかったが、
新たな夢に向かって一歩一歩進んでいる。


宮本事業部長からは、セレッソ大阪としてだけでなくサッカー発展の為の事業方針について
☆セレッソ大阪のブランド力向上(大阪らしさ、育成型クラブ、広報力)
☆セレッソ大阪スタジアムへ(大阪のおもてなし)
☆事業基盤の確立と拡大 等々のお話がパワーポイントでありました。
サッカークラブの運営は、毎年変わる外部環境で大きく経営内容も変わるとのことで、
私達、中小企業が抱える経営課題と同様にとても厳しい内容でした。



講演の後には、参加者の方々に気軽にサインや記念撮影や握手までされていて、サッカー界発展の事を
真剣に取り組まれている姿に感銘しました。元スポーツ、選手であっても未だに現役のままの熱意と
情熱を持って取り組まれていて、今年は「セレッソ大阪」を応援したくなりました。
どんな事業であっても「変化対応」が一番の課題です。経営とは「変化に対応して成果をだすこと」
その為にも、経営者自らが「変化に対応する力」が必要です。今年も、更に学んで行きます!!
開催されました。まず最初に築林会長より本年度の方針が伝えられ、各委員会の
事業方針や事業計画を述べられ、先日の本部理事会内容の報告もありました。
今年は、会員拡大をしながらも「ありがとう経営の推進と実践」がテーマです。
記念講演は、セレッソ大阪の宮本広報部長とミスターセレッソ・モリシこと森島寛晃氏
森島寛晃氏は中学生のとき、大河FCの大先輩である木村和司さんのプレーを間近で見て以来、
目標にしてきた。その木村さんから贈られたのが「心・技・体」という言葉だった。
1995年の冬、待望のJリーグデビューを果たす直前だった。プロサッカー選手として
必要不可欠な要素である「心・技・体」はそれ以来モリシの座右の銘になった。
高校は、静岡県の東海第一高校に進学。いわゆるサッカー留学だった。当時はまだ
Jリーグはなかったが、モリシには「プロになりたい」という気持ちはあった。
卒業後、慕っていた先輩がいるヤンマーに入った。
ヤンマーでは、早くから将来を担う選手として注目されていたモリシ。
1994年、チームは「セレッソ大阪」になったのをきっかけに、モリシを取り巻く環境も
変わった。同年、JFLで優勝したセレッソ大阪は翌1995年にJ1に昇格。
1995年はモリシにとっての大きな転機になった。日本代表に初選出されると同時に、
レギュラーに抜擢され、加茂ジャパンにとって不可欠の存在になった。1998年には
ワールドカップフランス大会のメンバーに選出され、1試合に出場。
その一方で、セレッソ大阪でも中心選手としての活躍が続き、1999年から2年間は
キャプテンを務めた。特に2000年1stステージには、リーグ優勝まであと一歩に
迫ったチームを引っ張りつづけた。
代表のユニフォームを身につけることのなかった1999年を越えて、2000年6月の
ハッサンII世杯のフランス戦では1ゴールを挙げ、見事に復活。同年のアジアカップ優勝、
さらに2001年のコンフェデレーションズカップ準優勝にも貢献した。2002年開催
されたワールドカップではセレッソのホーム・長居スタジアムでゴールを決めた。
2007年の4月に原因不明の首痛で戦線を離脱。長いリハビリ生活を送るも復帰の目処が立たず、
2008年10月31日に引退を発表。
モリシの最大の目標は、引退した今も変わらず「セレッソ大阪のリーグ優勝」だ。
セレッソのユニフォームを着て優勝カップを掲げるという夢は成し遂げられなかったが、
新たな夢に向かって一歩一歩進んでいる。


宮本事業部長からは、セレッソ大阪としてだけでなくサッカー発展の為の事業方針について
☆セレッソ大阪のブランド力向上(大阪らしさ、育成型クラブ、広報力)
☆セレッソ大阪スタジアムへ(大阪のおもてなし)
☆事業基盤の確立と拡大 等々のお話がパワーポイントでありました。
サッカークラブの運営は、毎年変わる外部環境で大きく経営内容も変わるとのことで、
私達、中小企業が抱える経営課題と同様にとても厳しい内容でした。



講演の後には、参加者の方々に気軽にサインや記念撮影や握手までされていて、サッカー界発展の事を
真剣に取り組まれている姿に感銘しました。元スポーツ、選手であっても未だに現役のままの熱意と
情熱を持って取り組まれていて、今年は「セレッソ大阪」を応援したくなりました。
どんな事業であっても「変化対応」が一番の課題です。経営とは「変化に対応して成果をだすこと」
その為にも、経営者自らが「変化に対応する力」が必要です。今年も、更に学んで行きます!!
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